原爆の子の像はなぜ建てられたのか?佐々木禎子の真実と碑文の重み
広島平和記念公園の緑豊かな敷地内、原爆ドームと平和記念資料館を結ぶ動線上に、両手で掲げた金色の折り鶴の上に少女が立つブロンズ像があります。「原爆の子の像」と呼ばれるこのモニュメントの周囲には、年間を通じて世界中から色とりどりの千羽鶴が捧げられ、祈りを捧げる人々が絶えません。
しかし、この像が「なぜ作られたのか」「誰がどのような思いで資金を集め、建立に至ったのか」という具体的な歴史的経緯や、モデルとなった少女・佐々木禎子さんの生涯について、教科書のわずかな記述以上に深く知る機会は多くありません。2026年の現在もなお世界各地から年間1,000万羽以上の折り鶴が届き続ける背景には、12歳で命を落とした一人の少女の無念と、それに突き動かされた子どもたちの強い結束がありました。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 建立の経緯:白血病で亡くなった佐々木禎子さんの死をきっかけに、同級生たちが全国の小中高校生に呼びかけて集めた募金によって1958年に完成。
- 知られざる真相:文学作品では「千羽折れずに亡くなった」と描かれがちだが、実際には1,300羽以上(一説には1,600羽以上)を折り上げていた。
- 現在と継承:世界中から届く年間約10トンの折り鶴は再生紙として循環利用され、像の鐘の音とともに平和への祈りを次世代へとつないでいる。
【建立の理由と経緯】原爆の子の像はなぜ誕生したのか?小学生たちが動かした歴史の真相
広島平和記念公園に佇む「原爆の子の像」は、行政や国家の主導によって建てられたモニュメントではありません。その発端は、1955年10月25日に12歳で亡くなった佐々木禎子(ささき さだこ)さんの同級生たちが抱いた純粋な悲しみと憤りでした。
禎子さんの死に直面した広島市立幟町(のぼりちょう)小学校の同級生たちは、葬儀の席で「禎ちゃんのため、そして原爆で命を落としたすべての子どもたちのために慰霊碑を作りたい」と誓い合いました。彼らは自ら「広島平和をきずく児童生徒の会」を結成し、広島市内の学校だけでなく、全国の小中学校や高校へ向けて手紙やビラを配り、募金を呼びかける活動を開始したのです。
この運動は当時の新聞やラジオで大きく報じられ、瞬く間に日本全国へ広がりました。全国各地の約3,100校に及ぶ学校や、アメリカ、イギリスをはじめとする海外9カ国からも支援金が寄せられ、最終的に約540万円(当時の貨幣価値としては極めて多額)の募金が集まりました。
像の制作を担当したのは、当時東京芸術大学の教授を務めていた彫刻家の菊池一雄氏です。菊池氏は子どもたちの熱意と平和への純粋な願いを受け止め、約3年の歳月をかけて高さ約9メートルの三位一体のブロンズ像を完成させました。完成した像は、1958年5月5日の「こどもの日」に除幕され、名実ともに子どもたちの手によって建てられた平和のシンボルとなりました。

モデルとなった佐々木禎子の生涯|白血病の発症と千羽鶴に託した命の願い
原爆の子の像のモデルとなった佐々木禎子さんは、1943年1月7日に広島市で生まれました。1945年8月6日、2歳のときに爆心地から約1.7キロメートルの自宅(現在の広島市中区楠木町)で被爆。爆風によって屋外へ吹き飛ばされたものの、奇跡的に外傷はなく、火災から逃れる途中で「黒い雨」を浴びながらも生き延びました。
戦後の混乱期を乗り越え、禎子さんは運動神経抜群の活発な少女へと成長します。小学校6年生のときにはクラスのリレー選手に選ばれるほど元気で、将来に大きな夢を抱いていました。しかし、被爆から約9年半が経過した1954年の秋、突然首のまわりや耳の後ろに小さなしこりが現れ始めます。
年が明けた1955年2月、精密検査の結果下された診断は「亜急性リンパ性白血病」でした。当時、白血病は「原爆病」の代表的な症例とされ、有効な治療法が確立されていない不治の病でした。余命は長くて1年と告げられ、広島赤十字病院への緊急入院を余儀なくされます。
入院中、禎子さんが折り鶴を折り始めたきっかけは、1955年8月に名古屋の高校生から届いたお見舞いの千羽鶴でした。「鶴を千羽折ると願いが叶い、病気が治る」という古くからの言い伝えを聞いた禎子さんは、生きることへの希望を捨てず、一心不乱に紙を折り始めました。当時、紙は貴重品だったため、薬の包み紙やセロハン紙、お見舞いの包装紙などをハサミで四角く切り、針を使って小さな鶴を折り続けたと記録されています。
一般に知られていない盲点と真相|「千羽折れずに亡くなった」説の真偽
佐々木禎子さんと折り鶴の物語をめぐっては、国内外で広く知られているエピソードと、実際の歴史的事実との間に決定的なギャップが存在します。
アメリカの作家エレノア・クーアが1977年に発表した児童文学『サダコと千羽の折り鶴(Sadako and the Thousand Paper Cranes)』をはじめとする海外の出版物では、「禎子は644羽を折ったところで力尽きて亡くなり、残りの356羽は同級生たちが折って千羽にした」というドラマチックな脚色がなされています。このストーリーが世界中に普及したため、現在でも多くの外国人観光客がこの説を事実だと信じています。
しかし、広島平和記念資料館の所蔵資料や実兄である佐々木雅弘氏の手記、当時の主治医の証言によると、禎子さんは生前に目標の千羽を達成し、実際には1,300羽以上(一説には1,600羽以上)の鶴を折っていました。
病状が悪化し、激しい関節の痛みや高熱に苦しみながらも、禎子さんは弱音を吐かず、家族に心配をかけまいとベッドの上で指先を動かし続けました。亡くなる直前には、米粒ほどの極小の折り鶴まで折っていたと伝えられています。事実としての記録は、物語的な悲劇の演出を超えて、生き抜こうとした12歳の少女の凄まじい精神力と命への執着を雄弁に物語っています。

碑文に込められた真のメッセージと「鐘の音」が響かせる平和への誓い
原爆の子の像の足元に据えられた石碑には、建立に携わった子どもたちが議論を重ねて決定した以下の碑文が深く刻まれています。
「これはぼくらの叫びです これは祈りです 世界に平和をきずくための」
この言葉の特徴は、原爆を投下した相手への憎しみや復讐心ではなく、未来へ向けた「平和の構築」を行動として誓っている点にあります。自分たちと同じように罪のない子どもたちが戦争の犠牲になることを二度と許さないという、普遍的な決意の表明です。
また、像の内部中央には、ノーベル物理学賞受賞者である湯川秀樹博士が贈った「千羽鶴」の文字が刻まれた金色の折り鶴が吊り下げられており、その直下には銅鐸(どうたく)を模した鐘が設置されています。像の周囲を訪れた参拝者が下部に吊るされたワイヤーを引くと、澄んだ鐘の音が平和記念公園一帯に静かに鳴り響く仕組みになっています。視覚的なモニュメントとしてだけでなく、聴覚を通じて平和の尊さを心に刻み込む工夫が施されている点も、この像の大きな特徴です。
【データ比較表】広島平和記念公園の主要モニュメントと原爆の子の像の特徴
広島平和記念公園内には数多くの慰霊碑や記念碑が存在しますが、それぞれ建立の主体や込められた役割が異なります。原爆の子の像の独自性を明確にするため、公園内の代表的なモニュメントとの比較データを下表にまとめました。
| モニュメント名 | 建立年・制作者 | 建立の主体・資金源 | 象徴性と主な役割 |
|---|---|---|---|
| 原爆の子の像 | 1958年(昭和33年) 菊池一雄 | 全国の子どもたち・学生 (草の根の募金活動) | 被爆で亡くなった全児童の慰霊と、次世代が主導する世界平和の祈念 |
| 広島 原爆死没者慰霊碑 (都市建設平和記念碑) | 1952年(昭和27年) 丹下健三 | 広島市・市民有志 (公的事業) | 国籍を問わず原爆死没者全霊を祀る公式慰霊碑。「過ちは繰返しませぬから」の碑文 |
| 原爆ドーム (旧広島県産業奨励館) | 1915年竣工(被爆) ヤン・レツル | 世界遺産登録・広島市保存基金 | 被爆当時の惨禍をそのまま残す「負の世界遺産」としての実物証拠 |
| 平和の鐘 | 1964年(昭和39年) 香取正彦 | 広島平和をきずく会 | 来訪者が自由に突くことで、核兵器廃絶の音波を全世界へ響かせる体験型設備 |

【実態検証】現在の様子と現場から見える平和学習のリアル
2026年現在、原爆の子の像の周囲には透明なガラス張りの折り鶴ブースが設置されており、色鮮やかな折り鶴が整然と捧げられています。広島市都市整備公社の集計によると、日本国内のみならず世界約100カ国以上から、年間約1,000万羽、総重量にして約10トンもの折り鶴がこの場所に届けられています。
かつては捧げられた折り鶴の保管と処分方法が課題となっていましたが、現在では広島市の「折り鶴長期保管・活用事業」により、一定期間展示された折り鶴は丁寧に解体され、高品質な再生紙へとアップサイクルされています。この再生紙は、広島市内の小中学校の卒業証書や平和記念式典の案内状、ノートや扇子といった記念グッズとして再製品化され、平和の意志が物理的な形を変えて循環する仕組みが確立されました。
現地を訪れると、全国から訪れた修学旅行生たちがクラスごとに像を取り囲み、「平和への誓い」を力強く朗読したあと、歌を捧げて千羽鶴を奉納する光景が日常的に見られます。また、海外からの個人旅行客が静かに手を合わせ、禎子さんが折った極小の鶴の写真パネルに見入る姿も多く、言語や国境を超えた共感の場として機能し続けています。
【プロの結論】平和教育と記憶の継承|感情的共感から構造的理解へ
歴史社会学および平和教育の視点から分析すると、「原爆の子の像」が半世紀以上にわたって世界的な求心力を保ち続けている理由は、単一の国家やイデオロギーに偏らない「子どもの視点による命の尊厳」に立脚しているからです。
原爆死没者慰霊碑が国家や都市としての公的な鎮魂を担うのに対し、原爆の子の像は「未来を奪われた一人の少女の痛み」というミクロな人間的感情を出発点としています。人間は巨大な数字(十数万人の死者)を抽象的に把握することは困難ですが、一人の少女が懸命に折り鶴を折ったという個別具体的な事実には強い共感を抱きます。
ただし、今後の平和学習において留意すべき判断基準があります。それは「かわいそうな少女の悲劇」という感傷的な感情移入だけで終わらせないことです。なぜ戦争が起き、なぜ非人道的な兵器が使われ、その被害が戦後何年にもわたって子どもたちの肉体を蝕んだのかという「構造的暴力」への理解へと発展させてこそ、碑文にある「世界に平和をきずく」ための真の実践につながります。
【原爆の子の像】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:原爆の子の像は広島平和記念公園のどこにありますか?
A1:平和記念資料館本館を出て北へ進み、原爆死没者慰霊碑を通り過ぎて元安川にかかる橋の手前、公園のほぼ中央北寄りに位置しています。原爆ドームからも徒歩約3分の距離にあり、公園内の主要見学ルート上に位置しています。
Q2:佐々木禎子さんが実際に折った実物の折り鶴を見ることはできますか?
A2:広島平和記念資料館(本館)に複数羽が常設展示されているほか、一部はアメリカの国立公文書館、真珠湾のアリゾナ記念館、ニューヨークの9/11メモリアルなど世界各地の平和関連施設にも寄贈され、展示されています。
Q3:個人や学校で折った千羽鶴を像に奉納したい場合、どうすればよいですか?
A3:直接持参する場合は、像の周囲にある折り鶴台に自由に捧げることができます。郵送で寄贈する場合は、広島市役所市民局国際平和推進部(平和推進課)宛に送付することで、職員によってブース内へ適切に奉納されます。
まとめ:佐々木禎子の願いを未来へつなぐために私たちができること
広島平和記念公園の「原爆の子の像」は、佐々木禎子さんの早すぎる死を悼む同級生たちの純粋な行動から生まれ、世界中の人々の善意によって今日まで守り継がれてきました。像の頂上で折り鶴を掲げる少女の姿は、過去の犠牲の象徴であると同時に、戦争のない未来を切り拓く私たちの責任を問いかける道標でもあります。
被爆から80年以上が経過し、戦争体験者から直接話を聞く機会が減少する2026年以降の時代において、このモニュメントが発するメッセージの重要性は一段と高まっています。現地を訪れて鐘の音に耳を傾けること、あるいは一羽の折り鶴に思いを込めること。小さな一人ひとりの行動が、碑文に刻まれた「平和をきずくための叫び」を未来へとつなぐ確かな力となります。 (出典: 原爆 の 子 の 像(Yahoo!ニュース))